親と若人のコミュニケーション

2 月 4th, 2008 by Kazue

「お父さんとお母さんに対して正直であってください。正直であることを示す一つの方法は両親とコミュニケーションを保つことです。だんまり戦術は避けましょう。夜暗くなって、時間が遅くなっても大事な娘や息子が家に帰っていないときには、チクタクという時計の音が大きく聞え、その針は遅く動くものです。何かの理由で遅くなるときには、「お母さん、お父さん、だいじょうぶだよ。ちょっと何かを食べるために店に立ち寄っただけだから。心配しないで。もうすぐ帰るからね」、と電話をしてください。
(「A Code to Live By(守るべききまり)」『New Era』、2005年9月号、4)

Posted in トーマス・モンソンの言葉 | No Comments »

安全への道はあるのでしょうか

2 月 4th, 2008 by Kazue

「不安な気持ちで皆さんは尋ねます。「安全への道はあるのですか。誰かわたしを導いてくれますか。迫っている破壊から逃れることはできるのでしょうか。」その答えは「はい」という明確なものです。皆さんに忠告します:主の灯台を探し求めなさいと。霧がどんなに濃くても、夜の闇がどんなに暗くても、強風がどんなに吹いても、水夫がどんなに途方にくれてしまっても、灯台の光に救えないものはありません。人生の荒波の中を導いてくれます。安全な道、家へたどりつく道はこちらだよと招いてくれます。主の灯台は容易にわかる、消えることのない信号を発しています。そのような信号は数多くありますが、そのうちの3つを挙げましょう。よく心に留めてください。皆さんの、そしてわたしの昇栄はこの3つにかかっているかもしれないのです。それは:祈りは平安をもたらすこと。奇跡が起こる前に信仰がなければならないこと。正直は最高の方策であること。」
(「
The Lighthouse of the Lord(主の灯台)」『New Era』、1980年7月号、16)

Posted in トーマス・モンソンの言葉 | No Comments »

今日を生きる

2 月 4th, 2008 by Kazue

「人の命ははかないもの、そして死は必ずやってくるものです。いつこの世を去らなければならなくなるかはわかりません。ですから、わたしはこう尋ねます、「今日をどうしていますか。」明日のためにだけ生きているのであれば、今日、たくさんの空しい昨日(きのう)が残るでしょう。皆さんはこのように言ってはいませんか。「生活の軌道修正をしなければならないと、ずっと考えてきました。明日、その第一歩を踏み出そうと思っています。」このように考えていては、あすは永遠にやってきません。明日について今日何とかしなければ、明日はまず来ないでしょう。」
(「Now Is the Time(今こそその時)」『Ensign』、2001年11月号、59)

Posted in トーマス・モンソン, トーマス・モンソンの言葉 | No Comments »

幸福な家庭のしるし

2 月 2nd, 2008 by Setsu

地上の誰もが自分の幸福を求めているのに、手にした喜びが消えてしまうのは誰もが経験することです。モンソン管長はこの説教で、人生で幸福を見つける方法について述べています。先ず、家族の大きさに関わらず、霊的な知識と一般教養に愛着を持った家庭を築くことです。幸福で健康な家族は、家族の一人一人にとって膨大な喜びと慰めの源になります。家族の皆が互いに愛と関心を抱いているとこを知っていると、それぞれが自分が価値ある存在であることに自信を持ち、愛する家族の希望と期待に添うようになります。

多くの人が重要な仕事、富や財産、人気、同僚や友達や知り合いに自分を認めてもらうといった放縦なことに喜びを見つけてそれに満足していますが、家族の愛はそれより遥かに価値のあるかけがえのないものです。家族を築くことは大変な努力が要ります。幸せな家族というものは、善良な人だけで構成されている状態を言うのではなく、努力して達成し、維持する状態をいうのです。愛情は自然に大きくなるというものではなく、賢明な努力によって築き上げ責任をもって育んで行かなければならないものだとモンソン長老は指摘します。

幸せな家族も試練に見舞われることがあります。幸せな家族には、立派な家やたくさんのお金は無いかもしれませんが、家族が一緒に学び、祈り、愛を示しあっています。そういう家族の行動が幸福な家族、人々を築き上げるものなのです。もし家族の誰かが、特に両親が率先して、主の教えと戒めに忠実に従えば、主はその家族を幸福へと導いてくださり、子供たちは親の模範に従うものです。

トーマス・モンソン長老は祝福は家族のある習慣によってもたらされるものだと説明しています。家族の祈りの習慣と、互いのために祈ることで人を傷つける感情をなくすことができるようになり、愛と一致が家族に生まれると教えておられます。両親は子どもの人生ので最も忠実で重要な教師です。モンソン長老は、家族を結ぶ愛情について、また親が子どもにとって生きた模範であることを述べています。

両親は子どもを育てる幸せな家庭を築く責任を満たさなければなりません。またその努力が家族のためになるのです。子どもにとって良い模範者として行動することで、両親は子どもに教えたいと願う明るい幸せな態度と従順の喜びを築くことができます。

「幸福な家庭のしるし」

この説教は、リアホナ、2001年10月号p.3に掲載されました。

「幸福こそ、わたしたちの存在する目的であり計画である。わたしたちがそこに通じる道に従っていけば、最後に到達できるものである。その道とは、徳、公正、忠実、聖さ、そして神のすべての戒めを守ることである。」

全人類のためにこの普遍的な目標をそう説明したのは、預言者ジョセフ・スミスでした。これは、過去現在を問わず、至言といえましょう。しかし、こうしたはっきりとした道しるべが与えられているにもかかわらず、不幸な人が多いのはなぜでしょうか。しかめっ面がほほえみを、絶望が喜びを押しのけてしまっているのです。わたしたちは神が与えてくださった可能性よりはるかに低いレベルで生活しています。ある人は物質主義に惑わされ、罪に足を取られ、世の風潮の中で自分自身を見失っています。またほかの人々は、いにしえのピリポが改宗に導いた人のようにこう叫ぶのです。「だれかが、手びきをしてくれなければ、どうして(道を見いだせるでしょう)。」

さて、世間的な意味での「満足」、つまりあふれるばかりの富を得ても、わたしたちは幸福にはなれません。また幸福は、遠く離れた未知の国にあるものでもありません。幸福は、家庭の中にあるのです。

わたしたちは皆、子ども時代の家庭の様子をよく覚えています。おもしろいことに、育った家の大小とか、周囲の環境が洗練されていたかどうかなどはあまり思い出しません。むしろ楽しい思い出となっているのは、家族とともに過ごした経験なのです。家庭は人生の経験の場であり、そこで学んだことが、わたしたちが家族から離れたときにどうのような人生を送るかの決め手になります。

イギリスのマーガレット・サッチャー元首相は、次のような含蓄のある人生哲学を述べました。「家族は社会を築くれんがである。家庭は保育園であり、学校、病院であり、憩いの場、平安を見出すところ、疲れをいやす場所である。家庭は社会の縮図である。我々の振興を培うところであり、人生に向けて備えをしてくれる場所である。」

「家庭は心のよりどころ」です。そして、立派な家庭を築くには、「日々の積み重ね」が必要なのです。「埴生の宿、貧しくも家庭に勝るところなし。」しかし、数々の楽しい思い出から我に返ると、そこには、両親がこの世を去り、息子や娘が成長して家を離れ、子ども時代は遠い過去のこと、という現実の世界が待ち受けています。そしえt、「どのような家庭を築くかは、わたしたちの責任である。」という真理に、徐々に、しかし、確実に直面することになります。わたしたちは知恵を使う必要があります。永遠は短い旅路ではないからです。なぎとうねり、ひなたと日陰、喜びと悲しみが混在しているからです。でも一生懸命努力すれば、家庭を地上の天国にすることができます。わたしたちの思いと行いと生き方は、この世の旅路の成功に影響を及ぼすだけではありません。それらは、永遠の目標に至る道を指し示すものとなるのです。

1995年に大管長会と十二使徒評議会は家族に関する世界への宣言を発表しました。この宣言には次のように述べられています。「家庭生活における幸福は、主イエス・キリストの教えに基づいた生活を送るときに達成されるに違いありません。実りのある結婚と家庭は、信仰と祈り、悔い改め、赦し、尊敬、愛、思いやり、労働、健全な娯楽活動の原則にのっとって確立され、維持されます。」

幸福な家庭は様々な形を呈しています。両親と大勢の子供たちが愛し合って暮らしている家庭もあれば、片親だけで一人で生活している人もいます。しかし、このように個々の状況は違っていても、幸せな家庭には共通したものがあります。わたしはこれを「幸福な家庭のしるし」と呼びたいと思います。それは、以下の4つから成っています。

1. 祈りの習慣

2. 学びの場

3. 愛の模範

4. 証のたくわえ

Posted in トーマス・モンソンの言葉, トーマス・モンソンの説教 | No Comments »

堅固な土台

2 月 1st, 2008 by Setsu

この説教でモンソン長老は、人生の試練と困難を切り抜けるために、その助けとなる堅固な土台を築くことについて教えておられます。神はわたしたちがこの地上に住んでいる間、神に忠実であるかどうかを見る為に試しを与えられます。一方、サタンは神の道から私わたしたちが外れるように誘惑します。また他の人たちもわたしたちにとっては苦痛になるような選択をすることがあります。悪いことは善良な人にも起こります。困難に直面すると神に忠実でいることが難しくなることもあります。信仰が試され、従順であることは容易ではなくなることがありますが、もしわたしたちがモンソン長老の忠告を聞き入れるなら、人生の嵐を乗り越えることができます。

モンソン長老は、困難なときにわたしたち自身と家族を強めることができる3つの忠告を与えてくださいました。もし祈ること、聖文を読むこと、他の人々に奉仕することを忘れないならば、神への従順と救い主に対する信仰を持ち続けるに十分強い霊的な筋力を養うことができます。

わたしたちが祈るとき、愛する天のお父様との関係を築くことができます。祈りによって神とコミュニケーションする方法を学び、わたしたちの祈りに対する神の答えを知ることができます。またわたしたちの個人的な問題について神の忠告に従うようになることを学ぶのです。こうして一つ一つの学び取ったことを通して、わたしたちが困難に遭った時に神を信頼し、導きを受けられるようになります。主に心を向けることを習慣にすることで、平穏なときはもちろん、最も神の助けを必要としているときに祈りに対する自信と信頼を持てるようになります。

聖典には神に対する信仰と従順の驚くべき例を見出すことができます。聖典を読むことで、わたしたちの特定の疑問について神からの答えを受けられます。聖文に書かれている人々の忠実な行いを読んで、どのように生きていけばよいかの模範を知ることができます。聖書やモルモン書の人物の経験した困難に照らし合わせて、その人々がどのように忠実であったか、あるいはそうでなかったかを知ることができます。聖典の中の模範によって、わたしたちの試しをさらによく耐える方法を知ることができます。

どんなことでも無私の奉仕は神に仕えることです。他の人を助ける時、自分の持っている問題を忘れることができます。他の人に愛と慈悲を示す時、主のわたしたちに対する愛と慈悲をより深く理解することができます。神への奉仕に自分を忘れる時、より明確な人生の展望を得ることができます。

「堅固な土台」

この説教は、リアホナ大会報告2006年11月号、pp.62, 67-68に掲載されています。
. . .
現世は試しの時期であり、天の御父のみもとに戻るためのふさわしさを証明する時期です。ですから試練や困難に遭うのは当然のことなのです。試しによってわたしたちの信仰が打ち砕かれ、魂にひびが入ってしまうかもしれません。それは、信仰の土台と真理に対する証がしっかりしていないからなのです。

一時的であれば、他人の信仰や証に頼ることもできるでしょう。しかし、最終的には自分自身のしっかりとした土台を築かなければなりません。そうしなければ、だれの人生にも必ず訪れる嵐に耐えられないのです。人生の嵐は様々な形でやって来ます。例えば、反抗的な子供が永遠の真理の道から離れ、過ちや失望の危険な道を選んだことによって、悲しみや心痛を経験することがあるかもしれません。自分や愛する人が、病気によって苦しみや死を経験するかもしれません。事故に遭い、つらい記憶が残ったり、命を落としたりするかもしれません。老いが進むと足元が危うくなり、死が忍び寄ります。死はしばしば、まだ人生の半ばの人にも訪れ、幼い子供の笑い声を奪っていくことさえあるのです。

トンネルの先に光が見えないときも、夜明けが来ないかのように思えるときもあります。わたしたちは、絶望している人の痛み、夢に敗れた人の失意、希望が打ち砕かれた人の落胆に取り囲まれています。わたしたちは声をそろえて「ギレアデに乳香はないのだろうか」(欽定訳エレミヤ8:22から和訳)という、聖文に記された嘆願を口にします。わたしたちは、自分の不幸を、悲観主義というゆがんだレンズを通して見る傾向があります。そして、見捨てられた、もう希望がない、孤独だと感じるのです。

こうした人生の浮き沈みに耐えられる堅固な土台を築くにはどうすればよいのでしょうか。忠実な人に約束された喜びを味わうために、その前提条件である信仰と証を維持するにはどうしたらよいのでしょうか。一歩ずつ地道に努力することが必要です。涙が出るほど御霊を強く感じ、これから先ずっと忠実であり続けようと決心したことのある人は多いと思います。このように言った人がいました。「このような気持ちを維持できさえすれば、義務を果たすことはとても簡単になるでしょうね。」しかし、そのような気持ちは移ろいやすいものです。このような大会で感じる御霊は、月曜日が来て、仕事や学校、家事や子育てなどの日常の雑務に追われるようになると、次第に薄れてしまうかもしれません。日々の雑務により、わたしたちの思いは、わたしたちが許してしまえば、神聖なものから世俗的なものへ、霊性を高めるものから、霊的な土台や証をむしばむものへと、流されていくのです。

確かに、この世界には霊的でないものがたくさんあります。それでも、わたしたちは信仰の土台を強め、強い証を築いて、ひるむことも、力を落とすこともなくいきることができるのです。この世で霊的に生き延びるために必要な土台をしっかり築き、維持するにはどうすればよいのでしょうか。

3つの役立つ指針を教えましょう。

1. 祈りを通して土台を固める。「祈りは魂の見えぬ望み 述べても述べずも、胸に燃ゆる」(「祈りは魂の」「賛美歌」83番)

祈るときには、天のお父様とほんとうに話しましょう。ほとんど何も考えずに、同じ言葉を繰り返すという習慣は簡単に身に付いてしまいます。皆、文字通り、神の霊の息子、娘であることを思い出せば、祈りを通して御父に近づくのは難しいことではないでしょう。神はわたしたちを知り、愛し、わたしたちの幸福を望んでおられます。心から、意味のある祈りをささげましょう。感謝をささげ、必要なものを求めてください。御父の答えを求めて耳を傾けましょう。そうすれば答えが与えられたときに気づくことができます。そうするうちに、わたしたちは、御父を知り、御父の御心を知るようになります。そして、御父を知るようになり、御父の御心を信頼するようになると、信仰の土台が強められるのです。もしもわたしたちの中に、常に祈りなさいという勧告に熱心に従ってこなかった人がいるならば、今こそ従うときです。ウィリアム・クーパーは言いました。「最も弱い聖徒がひざまずいて祈るとき、サタンは、ふるえおののく。」(ウィリアム・ニール編、Concise Dictionary of Religious Quotationsに収録「1947年」、144)

家族の祈りを怠らないようにしましょう。家族で祈ると、効果的に罪を予防できます。ですから、家族で祈ると喜びと幸福で満たされるのです。「ともに祈る家族は、ともにいる」という昔ながらのことわざは真実です。親であるわたしたちが祈りの模範を示すならば、子供にとって生涯必要な自分自身の信仰と証という堅固な土台を築くのを助けてあげることになるのです。

2.聖文を研究する。ヨシュア記の中で主が勧告しておられるように、「昼も夜もそれを思」うようにしてください。(ヨシュア1:8)

聖文の研究に日々時間を費やせば、間違いなく、信仰の土台が堅固になり、真理に対する証が強められます。

アルマは、ギデオンの地から南方のマンタイの地へ向かって旅をしていたときにモーサヤの息子たちと再会して、大いに喜びました。アルマは久しぶりに会った彼らが「なおも主にあって兄弟であったので、その喜びはいっそう深かった。さらに、彼らは正しい理解力を備えた人々であり、また神の言葉を知るために聖文を熱心に調べてきたので、すでに真理を深く知るようになっていた。」(アルマ17:1、2参照)

わたしたちが神の御言葉を知り、それに従って生活できますように。

3.信仰と証の堅固な土台を築くための3つ目の指針は、奉仕です。

ある朝、車で事務所に向かう途中、クリーニング屋の窓に次のような看板がかかっているのに気づきました。「価値ある奉仕をご提供します。」

実際のところ価値ある奉仕とは,まさに主の奉仕なのです。

「わたしは自分の生涯をあなたがたのための務めに費やしてきたと言ったが,それは自慢したくて言ったのではない。わたしは神のために務めてきたにすぎないからである。そして見よ,わたしがこれらのことを語るのは,あなたがたに知恵を得させるためである。すなわち,あなたがたが同胞
のために務めるのは,とりもなおさず,あなたがたの神のために務めるのであるということを悟らせるためである。」(モーサヤ2:16-17)

これが,価値ある奉仕です。わたしたち全員が召されている奉仕,すなわち,主イエス・キリストの奉仕です。

Posted in トーマス・モンソンの言葉, トーマス・モンソンの説教 | No Comments »

赦し:「隠れたくさび」 

2 月 1st, 2008 by Setsu

この説教でモンソン長老は、赦しが持つ癒しの力と遺恨が持つ破壊の力について話しておられます。遺恨を持っていたために重要な祝福を受けられなかった人々についていくつかの逸話を話しておられます。人生の皮肉な真理の一つは、わたしたちが相手に抱いている思いは、相手の人に影響するよりももっと自分の方に影響があります。わたしたちが恨みを持って、他の人に悪い感情を抱いていると、自分の内に持っている悪い否定的な考えのおかげで、エネルギーを無駄にし苦しむことになります。赦しは必須なことなのです。

誰でも間違いはするものです。自分が誰かからの赦しが必要となるまで、赦しを放り出すことはできないのです。黄金律に従うことです。つまりわたしたち自身に赦しが必要であると同じように、人も赦さなければなりません。クリスチャンの務めは、キリストに従い、キリストのようになることです。つまりキリストが私達を赦されると同じように、わたしたちも人を赦さなければなりません。

キリストが慈悲深く許されるのを好ましく思わない人がいます。また自分自身を赦せない人は、キリストの慈悲を力に限りがあると思っているためであったり、自分はキリストの慈悲を受ける価値が無いと思っていることがあります。しかし、キリストの赦しは無限であり、自分の考えに基づいた価値観によって左右されるものでもありません。むしろ、キリストの赦しは、わたしたちを再びキリストにふさわしい者に変えるための救いなのです。キリストはこの世の誰よりも慈悲深く、この地上のすべての人々を愛しておられます。それはキリストを憎み、キリストに対して過酷な扱いをする人にさえ当てはまるのです。

トーマス・S・モンソン長老は、他人も自分も赦すように勧告しておられます。他の人や自分に対して悪感情を抱いて、その考えに取り付かれてはなりません。よろこんで人と自分を赦すときに、わたしたちは縄目から解放され、進歩成長できるのです。自分を向上させ、同じ間違いを繰り返さないようにすることができるのです。別の言葉で言うと、神はすべての神の霊の子供たちであるわたしたちを愛しておられるのですから、神の愛しておられる人を憎むことは、神と自分の間に隔たりをつくることになるのです。一方、神の子供たちを愛し、赦しあうときに、神がその子どもたちを愛し赦しておられるように、神に近づくことができるのです。

「隠れたくさび」

この説教は、リアホナ2002年7月号pp.19-22に掲載されています。

1966年4月、教会の年次総大会でスペンサー・W・キンボール長老は記憶に残る説教をしました。キンボール長老は、サミュエル・T・ホイットマンが書いた「忘れられたくさび」(“Forgotten Wedges”)という話を引用しました。今日、わたしもサミュエル・T・ホイットマンの同じ話を引用し、その後で、わたし自身の経験をお話したします。

ホイットマンはこう記しています。「(その冬、)氷の混じった嵐は、概して大きな災害をもたらすことはなかった。実際、電線が何本か切れて垂れ下がり、ハイウエーの事故件数が急に増えた程度だった。……普通なら、くるみの大木は、広げた枝に付いた氷の重みに容易に耐えられるはずであった。この大木に打撃を与えたのは、幹の中心に食い込んだ鉄のくさびだった。」

鉄のくさびの話は、「(いまではくるみの木が立っている土地の所有者である)白髪の老農夫がまだ少年で、父親の農場で働いていたころにさかのぼる。当時、製材書がこの盆地から移転して行ったばかりで、開拓者たちは辺りに散乱した道具や余った備品などを見つけることがまだあった。……」

そんなある日、きこりの使うくさびを見つけた。幅が広く、平らで重く、長さが30センチ以上もあり、鉄をたたいて伸ばしたものであった。……(少年はそれを)南の牧場で見つけた。(きこり用のくさびは木を倒すのに用いられるもので、のこぎりの切り口に挟んでから、大きなハンマーでたたいて切り口を広げるのです。)……すでに夕食の時間を過ぎていたので、少年はそのくさびを……父親が門のそばに植えた小さなくるみの木の間に置いた。夕食のすぐ後か、次に通りかかったときにでも、そのくさびを小屋にもって行くつもりだった。

少年はほんとうにそうするつもりだった。しかし、実際にはしなかった。少年が大人になることには、(くさびは)枝に挟まれて幾らか動かなくなっていた。少年が結婚して父親の農場を継ぐころには、枝の間にがっしりと固定されていた。脱穀を終えてその木の下で仲間と夕食を食べたときには、半分近くが幹に食い込んでいた。……そして、その冬、氷の混じった嵐がやって来たとき、くさびは完全に幹の中に埋まっていたのである。

冷え込みが強かったその冬の夜、……3つの大きな幹の1つが裂け、太い枝がすさまじい音を立てて地面に落ちた。残った部分もバランスを失い、裂けて地面に倒れた。嵐が去った後には、あの立派な木は、小枝一本残っていなかった。

翌朝の朝早く外に出た農夫は、木が倒れたことを知って嘆いた。……

そのとき、裂けた幹の中に何かがあるのが目に留まった。「あのくさびだ。」農夫は自分をとがめるような声でつぶやいた。「南の牧場で見つけたくさびだ。」農夫は一目見て、木がなぜ倒れたのか理解した。くさびが幹の中まで食い込んでいたために、枝を支える力が弱っていたのである。

兄弟姉妹、わたしたちの知っている多くの人の生活にも、そして恐らくわたしたち自身の家族の中にも隠れたくさびが存在します。

すでに他界していますが、生涯にわたる友人の話をしたいと思います。名をレナードといいました。教会の会員ではありませんでしたがが、奥さんと子どもたちは会員でした。奥さんは初等協会の会長として奉仕し、息子さんは立派に伝道を終えました。娘さんと息子さんは厳粛な儀式によりそれぞれの伴侶と結婚し、家族を持ちました。

レナードは、わたしも含め、だれからも好かれていました。奥さんと子どもたちが教会の責任を果たせるよう助けていました。家族とともに教会主催の様々な活動にも出席しました。善良で清い生活を送り、人に奉仕し、親切にしていました。家族はもちろん、大勢の人は、どうしてレナードが、福音の会員にもたらす祝福を享受することなくこの世を去ったのか不思議でなりませんでした。

晩年、レナードの健康は優れませんでした。最終的には入院し、そこで死を迎えることになりました。最後に交わした会話の中で、レナードはこう言いました。「トム、君とは子どものころからの知り合いだ。わたしがどうして教会に入らなかったのか、君に伝えておいた方がいいと強く感じてね。」彼は遠い昔に両親がした経験について話してくれました。レナードの家族は、仕方なくですが、農場を売りにださなければならない事態に至り、買い入れるという申し出を受けました。そこへ近所の農夫が、その申し出を断ってもう少し安い金額で自分に売ってほしいと言ってきました。そしてこう付け加えました。「ぼくたちは前々から親友だろう。だからもし僕にその農場を売ってくれたら、これからも良く手入れしていくよ。」レナードの両親はようやく同意し、農場は売却されました。その買い手となった近所の農夫は、教会で責任ある地位に就いていました。そういう人物なら信用できると思ったからこそ、家族は農場を売ろうと決めたのです。最初に関心を示した買い手に売っていれば得られたであろう金額を下回りましたが、それでもそうしました。ところが、売却が成立して間もなく、その隣人は自分の農場とレナードの家族から得た農場を一つに合わせ、売ってしまったのです。広げた土地の値打ちは上がり、したがって販売価格をもつり上げることになりました。レナードが絶対に教会に入らなかったのはなぜか、という長年の疑問が解けました。レナードの心には、自分たち家族は隣人に欺かれたのだという気持ちが常にあったのです。

彼はこの話が終わると、これで厄介な重荷がようやく取り払われ、造り主とお会いする用意ができたよと打ち明けてくれました。悲しい事に、隠れたくさびのせいでレナードは大きな祝福を得られなくなっていたのです。

わたしの知人に、ドイツからアメリカに移住して来たある家族がいます。英語は彼らにとっては難しい言語でした。生計を立てる手段はほとんどありませんでしたが、皆、働く意欲と神への愛に満ちていました。

三番目の子どもが生まれましたが、わずか2か月後に死んでしまいました。家具職人であった父親は、大切な子どもの体に合う美しいひつぎを作りました。葬儀の日はどんよりとした曇り空で、子どもを失った家族の悲しみを反映しているかのようでした。父親が小さなひつぎを抱え、家族で礼拝堂に向かって歩いていると、わずかばかりの友人が集まって来ました。しかし、礼拝堂のドアには鍵がかかっていました。忙しい監督が葬儀のことを忘れていたのです。連絡を取ろうとしましたが、無駄でした。途方にくれた父親は、ひつぎを腕に抱え、家族を伴って、雨でびしょぬれになりながら、歩いて帰宅したのです。

もしその家族がもっと人格の低い人々だったとしたら、監督を非難し、悪感情を抱いていたことでしょう。監督はその悲劇を知るとすぐにこの家族を訪れ、誤りました。父親の表情からは心に受けた傷がありありと見て取れましたが、目に涙を浮かべながら、謝罪を受け入れました。二人は理解の精神をもって抱き合いました。さらに怒りを引き起こすような隠れたくさびは残らず、愛と受容の精神がその場に満ちました。

人の霊は、わたしたちをつなぎ止める鎖や悪感情から解き放たれていなければなりません。そうすれば霊的に高められ、魂が快活でいられます。多くの家族の中に、傷ついた心や赦せない気持ちが存在しています。原因が何であったかはあまり問題ではありません。それがさらに傷を深めるままにしておくことはできませんし、そうしてはならないのです。非難は傷口を広げるだけです。赦しのみが癒してくれます。17世紀初期の詩人、ジョージ・ハバートはこう言っています。「他の人を赦せない人は、天国に行くために自分が渡らなければならない橋を壊している。だれもが赦しを受ける必要があるのだから。」

残酷な十字架の上で息を引き取ろうとしておられた救い主の言葉は素晴らしいものです。こう言われました。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」

自分自身を赦すことができずに、自分の目につく欠点ばかりにこだわっている人々がいます。わたしには、ある宗教指導者に関する大好きな話があります。この指導者は死期の近づいた女性の枕元へ行き、慰めようとしましたが、無駄でした。「わたしはもうだめです。」女性は言いました。「私の人生も、周りの人に人生もめちゃくちゃにしてしまいました。何の希望もありません。」

指導者は、洋服だんすの上に置かれた額に入ったかわいい女の子の写真に気づきました。「どなたですか」と尋ねました。

女性は顔を輝かせました。「わたしの娘です。わたしの人生で唯一、かけがえのない存在です。」

「娘さんが困っていたり、間違いを犯したりしたら、助けますか。赦してあげますか。それでも愛せますか。」

「もちろんです。」女性は声を上げました。「あの子のためだったら、何だってします。どうしてそんな質問をなさるのですか。」

「あなたに知ってもらいたいからです。」指導者は言いました。「たとえて言えば、天の御父も洋服だんすの植えにあなたの写真を飾っておられるということです。天の御父はあなたを愛し助けてくださいます。主に寄り頼んでください。」

幸福を阻んでいた、隠れたくさびは取り除かれました。

Posted in トーマス・モンソンの言葉, トーマス・モンソンの説教 | No Comments »

Next Entries »