トーマス・S・モンソンは、最愛の預言者であり、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教会と時に呼ばれてしまう)の大管長です。彼は、(伝記作者ハイディ・スィントンによると彼が「真の評価書」と呼ぶことを好んでいる)経験談と、親切で思やりのある心と同じく詩に対する愛情で知られています[1] 最近、モンソン大管長は言いました。

・・・私がしてきた数えきれない経験は、必ずしも並外れたものではなかったと(気づきました)。実際、それが消えてなくなった時には、それらは注意を引くほどではなく、普通のことでさえあるようにしばしば感じました。それでも振り返ってみると、それらは人生を豊かにし、祝福しました。その最も小さくない部分が、私自身の人生です。[2]

彼のユーモアとこれらの「目立たない」出来事に対する心からの感想を通して、彼の無条件の愛と友情と神への献身を知ることができ、私たちは預言者を慕うようになります。

義にかなう母親は、思いやりを教える

nopurpose-ship-home-lfモンソン大管長は、1927年8月21に、ユタ州ソルトレークシティにおいて、G・スペンサー・モンソンとグラディス・コンディ・モンソンの子供として生まれました。モンソン大管長には、母親の懐かしい思い出があります。

私は、母親から多くのレッスンを学びました。私はとても活発な少年だったに違いありません。母はいつも私に「もっとゆっくり、トミー。ゆっくり。聖ブィートダンス(シデナム舞踏病)になる寸前よ。」私が聖ブィートダンスを知らなかったことは、お分かりいただけると思います。私にわかったのは今にもそれになりそうだということだけで、彼女の口ぶりからそれが過激な病気だと想定しました。[3]

スウィントン姉妹は言いました。

彼は、家庭でキリストのように生きることを学びました。そこは、慈愛(キリストの純粋な愛)や思いやり、他の人の人生を高めて祝福したいという望みが道徳的規範の場所であり、両親は彼に聖典を読みはしませんでしたが、聖典に従って生活していた場所です。[1]

モンソン大管長は、大恐慌の時代に、ソルトレークシティの西側の「線路の間」で育ち、他人への思いやりの多くを母親から学びました。[1]彼は言いました。

私たちは線路から1,2ブロック離れたところに住んでいたので、職も食費もない男たちが、列車を離れ、食べるものを求めて、しばしば我が家に来ました。・・・永久に私の心に刻みこまれているのは、痩せ衰え、お腹を空かした男が勝手口に立っていて、手に帽子を持ち、食べ物を嘆願している様子です。母は、そのような訪問者を歓迎し、手などを洗うために台所の流しへ向かわせ、その間に母は彼のために食べるものを用意しました。彼女は、質も量も惜しむことは決してありませんでした。訪問者は、父が食べたのと全く同じ昼食を食べました。彼が食べ物をがつがつ食べている時、母は、家へ、家族familyのもとへ帰るよう助言する機会としました。彼が食卓を離れる時、肉体的、霊的に養われていました。これらの男たちは、感謝の言葉を述べることを決して忘れませんでした。目に涙を浮かべ、心にある感謝 gratitudeをとても静かに表しました。[3]

キリストに従うというクリスマス・レッスン

模範を通して思いやりを教えることに加えて、モンソン大管長の母親は、息子が経験を通して学べるようにしました。彼が10歳の時のクリスマスの日に、そのようなことが起こりました。預言者は、電車がとても欲しかったと思い出します。「手頃な価格の、どこにでもあるようなぜんまい仕掛けのおもちゃの列車ではなく、むしろ電気という奇跡によって動く物でした。」

これは大恐慌の時のことですが、彼の両親は、(犠牲を払ったと思われますが、)素晴らしい電車を贈りました。母親は、少し安い電動でない列車も、通り沿いに住む未亡人の息子のために買いました。幼いトミー(そう呼ばれていました)は、自分のセットにはないオイル・タンカー車両を見つけ、それを母親にねだりました。母親は、とうとう降参し、言いました。「もしあなたが、彼以上に必要なら、持って行きなさい。」彼は、オイル・タンカーを自分の物にし、彼らはマーク・ハンセンに贈り物を持って行きました。モンソン大管長はこう締めくくっています。

(マークは)そのような贈り物を予想だにできなかったので、言い表せないほど興奮しました。彼は機関車の鍵を回し(私のとは違い電動ではないので)、機関車と2両の車両、それに乗務員車が、線路に沿って進むのを見て大喜びしました。賢明にも母は尋ねました。「マークの列車をどう思う、トミー。」私は強い罪の意識を感じ、利己的であることが十分わかりました。私は母に言いました。「ちょっと待ってて。すぐに戻るから。」

私の足が動く限り速く、私は家に走り、オイル・タンカーと、自分の車両も加えて、通りをハンセン家へと走って戻り、嬉しそうにマークに言いました。「君の列車にセットになっていた2つの車両を持ってくるのを忘れてたよ。」マークは、その2両をセットに連結しました。機関車が線路に沿って重そうに走るのを見て、私は表現が難しく、忘れることのできない最高の喜びを感じました。[4]

時に簡潔なレッスンが、最も重大であり、最も忘れられないものです。

「彼の成功物語のもう半分」

すべての良い男性の後ろには、もっと良い女性がいるとしばしば言われます。確かに、モンソン大管長の後ろには、彼の傍らに立ち、彼が主に仕えることが出来るよう家庭を世話している義にかなった女性がいます。12使徒定員会(大管長会と共に、イエス・キリスト教会を管理する)のジェフリー・R・ホランド長老は、言いました。

心と霊の事柄でいっぱいの人生の本で最も甘美な章の一つは、モンソン大管長のフランシス・ジョンソンとのコートシップに始まります。[5]

モンソン大管長は、コートシップの始まりのことを詳しく話しています。

私がフランシスを見た最初の日、まさに正しい人を見つけたとわかりました。後に主は私たちを合わせて下さり、私は彼女をデートに誘いました。彼女を訪問するために家へ行きました。彼女が私を紹介すると、父親が言いました。「モンソン・・・、スウェーデンの名前だね。」私は、答えました。「はい。」

彼は他の部屋へ行き、シルク・ハットにモルモン書Book of Mormonを持った二人の宣教師の写真を持ってきました。「君は、このモンソンと親戚かね。」彼は言いました。「エライアス・モンソン」

私は言いました。「はい、彼は私の祖父の兄弟です。スウェーデンで彼も宣教師でした。」

彼女の父親は涙を流しました。彼は言いました。「彼と同僚は、私の両親と私の兄弟皆と私に福音を教えてくれた宣教師でした。」彼は私の頬にキスをしました。そして彼女の母親は泣いて、もう片方の頬にキスをしました。そして私は、フランシスを見回しました。彼女は言いました。「コートを取って来るわ。」[6]

彼らの娘、アン・モンソン・ディブは言いました。

お母さんは、お父さんの成功物語のもう半分、誰もあまり知らない半分です。父は、とても誠実に仕えて多くを与えながらも、認められることを決して求めない人々について「匿名」という題名で、大会で話をしました。その話は、見事に母に当てはまります。彼女なしには、父は今までしたことを成し遂げられなかったでしょう。[5]

トーマス・S・モンソンとフランセス・ジョンソンは、1948年10月7日にソルトレーク神殿で結婚しました。3人の子供と8人の孫、8人のひ孫に恵まれました。フランセスは、2013年に亡くなり、葬儀の模様は、教会員に放送されました。

未亡人に対して忠実で献身的な友人

モンソン大管長は、他人に対する愛でよく知られています。ホランド長老は言いました。

忠実さは、トム(または、若いときは「トミー」)モンソンを最もよく知る人たちが口にする言葉です。彼の忠実さは、長年に渡る友人たち、今のとても忙しい生活の中では覚えていることを期待されていないかもしれない友人たちを覚えている、深く根差した、不滅の忠実さです。

彼の生涯に渡る友人、ジョン・バートは言います。「トムのワードに住んでいた未亡人(87人)に対するトムの世話は、人々に対する彼の忠実さと献身の実例です。私たち他の者はビショップの召しから解任されると、次の仕事になんとなく移り、次の人に未亡人たちを託します。しかしトムはそうではありません。彼は何とかして彼らを訪問し続ける時間を見つけます。彼は私が知る最も忠実な男です。彼は決して、彼がどこから来たか忘れず、彼が『大物』になる前に知っていた人々を決して忘れません。」[5]

ビショップとは、ワード、地区の会衆の神権指導者です。神権とは、神の子供たちの救いのためのすべての事柄を行うために、神がふさわしい男性に与えられる権能です。モンソン大管長がビショップの時には1000人以上がワードにいましたし、ビショップは一人一人を管理する神権指導者です。どのような場合でも聖霊のささやきに耳を傾けるように、彼に教えた一つの経験があります。23歳で、彼はワードのビショップになりました。彼がステーク(ワードを集めたもの)神権指導者会に出席していた時に、病院へ行くようにという促しを受けました。彼はワードのお年寄りから祝福を頼まれていて、その集会後に行く予定でした。その集会中促しはとても強かったのですが、そこにいる人々の妨げになりたくありませんでした。最後の話者の後、閉会の祈りも待たずに彼は急ぎました。ホランド長老は言いました。

病院の4階の廊下を端から端まで走り、若いビショップは指示された部屋の外で何か特別なことが行われているのを見ました。看護師が彼を呼び止めて言いました。「あなたがモンソン・ビショップ?」「はい」、と不安げに答えました。

「残念です。」彼女は言いました。「患者さんは、亡くなる寸前まであなたの名前を呼んでいました。」

涙をこらえて、トーマス・S・モンソンは向きを変え、闇夜に戻って行きました。彼はその時そこで、主からの促しに従って行動することを二度とし損なわないと誓いました。彼は、御霊のからの印象が来た時に認識し、すべての「主の用向きのため」に、導かれるところはどこへでも行くでしょう。[8]

モンソン大管長は、その経験を決して忘れたことはありません。ビショップとして、また他の召しで奉仕していた時、モンソン大管長は87人の未亡人を彼女たちが亡くなるまで忠実に訪問しました。ホランド長老は言いました。

87人の未亡人はほとんど皆、今はもう亡くなっていますが、彼女たちの「ビショップ」は、終わりまで訪問し続けました。数年前のクリスマスの季節のある夜、モンソン大管長は、「彼の」未亡人たちへの通例の巡回をし、(初期の頃は彼の鶏小屋で育てた)丸々とした下ごしらえ済みのチキンを含む自費で購入したプレゼントを渡しました。ソルトレークシティの多くの介護施設の一つで、彼は心底理解するようになりました。彼はワード会員の一人が、暗い部屋で、失明によりなお一層暗く、一人で静かに座っているのを見つけました。モンソン大管長がこのかわいらしい姉妹のそばへ行くと、彼女はぎこちなく手を伸ばし、クリスマス・シーズンを通して唯一の訪問者の手を手探りしました。「ビショップ、あなたですか?」彼女は尋ねました。「ええ、大好きなハッティ、わたしですよ。」「ああ、ビショップ。」彼女は見えない目から涙を流しました。「あなたは来てくれるとわかっていましたよ。」彼らは皆彼が来ると知っていましたし、彼はいつも来ました。[5]

救い主の愛への窓

モンソン大管長の人々への愛は、救い主イエス・キリストへの真の献身と愛を示しています。ホランド長老により話された経験は、モンソン大管長の人々への優しさを表しています。

かつてある人がモンソン大管長に善意で、これらのお年寄りを訪問し、ほぼ一言も返さないのに長時間話すのは意味がないと言いました。「時間を無題使いせずに一息ついたらどうですか。モンソン長老。彼らは、あなたが誰かわかりませんよ。」

「彼らが私を知っているかどうかは、問題ではありません。」トーマス・モンソンは断固として答えました。「彼らが私を知っているから話すのではありません。私が彼らを知っているから話すのです。」[8]

ビショップとして働いた後、モンソン大管長は、ステーク会長会として、そして伝道部会長として働きました。彼はイエス・キリストの使徒として、1963年に36歳で聖任されました。彼は、1985年からイエス・キリスト教会の大管長会の顧問として働きました。モンソン大管長は、出版、印刷の分野で著名な経歴を持っています。[7]モンソン大管長は手にした成功にかかわらず、それまでに出会って人を決して忘れません。故ジョセフ・B・ワースリン長老、当時イエス・キリストの使徒は、言いました。

私はモンソン大管長を長年に渡り知っています。彼は、この教会を統括するよう予任されたイスラエルの偉大な者です。彼は、人の心を捕らえる話やたとえ話でよく知られていますが、彼を最もよく知っている私たちは、彼の人生はそれらの話を適用した実践的で模範的な例であるとわかっています。この世で偉大で力ある者の多くが彼を知り、尊敬しているということは彼にとって光栄なことではありますが、地位の低い多くの人が彼を友と呼ぶことは、たぶんさらに大きな賛辞です。モンソン大管長は芯から、優しくて思いやりがあります。彼の言葉と行いは、その人に対する関心を体現しています。

この記事は、イモンタギューlmontagueにより書かれた。

私は、妻であり4人の素晴らしい子供たちの母親で、山に囲まれたアイダホの小さな町に住んでいます。私たちは冬にはスキーをし、夏にはキャンプや釣りをし、ビーチに行きます。私は、生涯に渡り末日聖徒イエス・キリスト教会の会員で、救い主と人生における福音の祝福に感謝しています。

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