この説教でモンソン長老は、赦しが持つ癒しの力と遺恨が持つ破壊の力について話しておられます。遺恨を持っていたために重要な祝福を受けられなかった人々についていくつかの逸話を話しておられます。人生の皮肉な真理の一つは、わたしたちが相手に抱いている思いは、相手の人に影響するよりももっと自分の方に影響があります。わたしたちが恨みを持って、他の人に悪い感情を抱いていると、自分の内に持っている悪い否定的な考えのおかげで、エネルギーを無駄にし苦しむことになります。赦しは必須なことなのです。

誰でも間違いはするものです。自分が誰かからの赦しが必要となるまで、赦しを放り出すことはできないのです。黄金律に従うことです。つまりわたしたち自身に赦しが必要であると同じように、人も赦さなければなりません。クリスチャンの務めは、キリストに従い、キリストのようになることです。つまりキリストが私達を赦されると同じように、わたしたちも人を赦さなければなりません。

キリストが慈悲深く許されるのを好ましく思わない人がいます。また自分自身を赦せない人は、キリストの慈悲を力に限りがあると思っているためであったり、自分はキリストの慈悲を受ける価値が無いと思っていることがあります。しかし、キリストの赦しは無限であり、自分の考えに基づいた価値観によって左右されるものでもありません。むしろ、キリストの赦しは、わたしたちを再びキリストにふさわしい者に変えるための救いなのです。キリストはこの世の誰よりも慈悲深く、この地上のすべての人々を愛しておられます。それはキリストを憎み、キリストに対して過酷な扱いをする人にさえ当てはまるのです。

トーマス・S・モンソン長老は、他人も自分も赦すように勧告しておられます。他の人や自分に対して悪感情を抱いて、その考えに取り付かれてはなりません。よろこんで人と自分を赦すときに、わたしたちは縄目から解放され、進歩成長できるのです。自分を向上させ、同じ間違いを繰り返さないようにすることができるのです。別の言葉で言うと、神はすべての神の霊の子供たちであるわたしたちを愛しておられるのですから、神の愛しておられる人を憎むことは、神と自分の間に隔たりをつくることになるのです。一方、神の子供たちを愛し、赦しあうときに、神がその子どもたちを愛し赦しておられるように、神に近づくことができるのです。

「隠れたくさび」

この説教は、リアホナ2002年7月号pp.19-22に掲載されています。

1966年4月、教会の年次総大会でスペンサー・W・キンボール長老は記憶に残る説教をしました。キンボール長老は、サミュエル・T・ホイットマンが書いた「忘れられたくさび」(“Forgotten Wedges”)という話を引用しました。今日、わたしもサミュエル・T・ホイットマンの同じ話を引用し、その後で、わたし自身の経験をお話したします。

ホイットマンはこう記しています。「(その冬、)氷の混じった嵐は、概して大きな災害をもたらすことはなかった。実際、電線が何本か切れて垂れ下がり、ハイウエーの事故件数が急に増えた程度だった。……普通なら、くるみの大木は、広げた枝に付いた氷の重みに容易に耐えられるはずであった。この大木に打撃を与えたのは、幹の中心に食い込んだ鉄のくさびだった。」

鉄のくさびの話は、「(いまではくるみの木が立っている土地の所有者である)白髪の老農夫がまだ少年で、父親の農場で働いていたころにさかのぼる。当時、製材書がこの盆地から移転して行ったばかりで、開拓者たちは辺りに散乱した道具や余った備品などを見つけることがまだあった。……」

そんなある日、きこりの使うくさびを見つけた。幅が広く、平らで重く、長さが30センチ以上もあり、鉄をたたいて伸ばしたものであった。……(少年はそれを)南の牧場で見つけた。(きこり用のくさびは木を倒すのに用いられるもので、のこぎりの切り口に挟んでから、大きなハンマーでたたいて切り口を広げるのです。)……すでに夕食の時間を過ぎていたので、少年はそのくさびを……父親が門のそばに植えた小さなくるみの木の間に置いた。夕食のすぐ後か、次に通りかかったときにでも、そのくさびを小屋にもって行くつもりだった。

少年はほんとうにそうするつもりだった。しかし、実際にはしなかった。少年が大人になることには、(くさびは)枝に挟まれて幾らか動かなくなっていた。少年が結婚して父親の農場を継ぐころには、枝の間にがっしりと固定されていた。脱穀を終えてその木の下で仲間と夕食を食べたときには、半分近くが幹に食い込んでいた。……そして、その冬、氷の混じった嵐がやって来たとき、くさびは完全に幹の中に埋まっていたのである。

冷え込みが強かったその冬の夜、……3つの大きな幹の1つが裂け、太い枝がすさまじい音を立てて地面に落ちた。残った部分もバランスを失い、裂けて地面に倒れた。嵐が去った後には、あの立派な木は、小枝一本残っていなかった。

翌朝の朝早く外に出た農夫は、木が倒れたことを知って嘆いた。……

そのとき、裂けた幹の中に何かがあるのが目に留まった。「あのくさびだ。」農夫は自分をとがめるような声でつぶやいた。「南の牧場で見つけたくさびだ。」農夫は一目見て、木がなぜ倒れたのか理解した。くさびが幹の中まで食い込んでいたために、枝を支える力が弱っていたのである。

兄弟姉妹、わたしたちの知っている多くの人の生活にも、そして恐らくわたしたち自身の家族の中にも隠れたくさびが存在します。

すでに他界していますが、生涯にわたる友人の話をしたいと思います。名をレナードといいました。教会の会員ではありませんでしたがが、奥さんと子どもたちは会員でした。奥さんは初等協会の会長として奉仕し、息子さんは立派に伝道を終えました。娘さんと息子さんは厳粛な儀式によりそれぞれの伴侶と結婚し、家族を持ちました。

レナードは、わたしも含め、だれからも好かれていました。奥さんと子どもたちが教会の責任を果たせるよう助けていました。家族とともに教会主催の様々な活動にも出席しました。善良で清い生活を送り、人に奉仕し、親切にしていました。家族はもちろん、大勢の人は、どうしてレナードが、福音の会員にもたらす祝福を享受することなくこの世を去ったのか不思議でなりませんでした。

晩年、レナードの健康は優れませんでした。最終的には入院し、そこで死を迎えることになりました。最後に交わした会話の中で、レナードはこう言いました。「トム、君とは子どものころからの知り合いだ。わたしがどうして教会に入らなかったのか、君に伝えておいた方がいいと強く感じてね。」彼は遠い昔に両親がした経験について話してくれました。レナードの家族は、仕方なくですが、農場を売りにださなければならない事態に至り、買い入れるという申し出を受けました。そこへ近所の農夫が、その申し出を断ってもう少し安い金額で自分に売ってほしいと言ってきました。そしてこう付け加えました。「ぼくたちは前々から親友だろう。だからもし僕にその農場を売ってくれたら、これからも良く手入れしていくよ。」レナードの両親はようやく同意し、農場は売却されました。その買い手となった近所の農夫は、教会で責任ある地位に就いていました。そういう人物なら信用できると思ったからこそ、家族は農場を売ろうと決めたのです。最初に関心を示した買い手に売っていれば得られたであろう金額を下回りましたが、それでもそうしました。ところが、売却が成立して間もなく、その隣人は自分の農場とレナードの家族から得た農場を一つに合わせ、売ってしまったのです。広げた土地の値打ちは上がり、したがって販売価格をもつり上げることになりました。レナードが絶対に教会に入らなかったのはなぜか、という長年の疑問が解けました。レナードの心には、自分たち家族は隣人に欺かれたのだという気持ちが常にあったのです。

彼はこの話が終わると、これで厄介な重荷がようやく取り払われ、造り主とお会いする用意ができたよと打ち明けてくれました。悲しい事に、隠れたくさびのせいでレナードは大きな祝福を得られなくなっていたのです。

わたしの知人に、ドイツからアメリカに移住して来たある家族がいます。英語は彼らにとっては難しい言語でした。生計を立てる手段はほとんどありませんでしたが、皆、働く意欲と神への愛に満ちていました。

三番目の子どもが生まれましたが、わずか2か月後に死んでしまいました。家具職人であった父親は、大切な子どもの体に合う美しいひつぎを作りました。葬儀の日はどんよりとした曇り空で、子どもを失った家族の悲しみを反映しているかのようでした。父親が小さなひつぎを抱え、家族で礼拝堂に向かって歩いていると、わずかばかりの友人が集まって来ました。しかし、礼拝堂のドアには鍵がかかっていました。忙しい監督が葬儀のことを忘れていたのです。連絡を取ろうとしましたが、無駄でした。途方にくれた父親は、ひつぎを腕に抱え、家族を伴って、雨でびしょぬれになりながら、歩いて帰宅したのです。

もしその家族がもっと人格の低い人々だったとしたら、監督を非難し、悪感情を抱いていたことでしょう。監督はその悲劇を知るとすぐにこの家族を訪れ、誤りました。父親の表情からは心に受けた傷がありありと見て取れましたが、目に涙を浮かべながら、謝罪を受け入れました。二人は理解の精神をもって抱き合いました。さらに怒りを引き起こすような隠れたくさびは残らず、愛と受容の精神がその場に満ちました。

人の霊は、わたしたちをつなぎ止める鎖や悪感情から解き放たれていなければなりません。そうすれば霊的に高められ、魂が快活でいられます。多くの家族の中に、傷ついた心や赦せない気持ちが存在しています。原因が何であったかはあまり問題ではありません。それがさらに傷を深めるままにしておくことはできませんし、そうしてはならないのです。非難は傷口を広げるだけです。赦しのみが癒してくれます。17世紀初期の詩人、ジョージ・ハバートはこう言っています。「他の人を赦せない人は、天国に行くために自分が渡らなければならない橋を壊している。だれもが赦しを受ける必要があるのだから。」

残酷な十字架の上で息を引き取ろうとしておられた救い主の言葉は素晴らしいものです。こう言われました。「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」

自分自身を赦すことができずに、自分の目につく欠点ばかりにこだわっている人々がいます。わたしには、ある宗教指導者に関する大好きな話があります。この指導者は死期の近づいた女性の枕元へ行き、慰めようとしましたが、無駄でした。「わたしはもうだめです。」女性は言いました。「私の人生も、周りの人に人生もめちゃくちゃにしてしまいました。何の希望もありません。」

指導者は、洋服だんすの上に置かれた額に入ったかわいい女の子の写真に気づきました。「どなたですか」と尋ねました。

女性は顔を輝かせました。「わたしの娘です。わたしの人生で唯一、かけがえのない存在です。」

「娘さんが困っていたり、間違いを犯したりしたら、助けますか。赦してあげますか。それでも愛せますか。」

「もちろんです。」女性は声を上げました。「あの子のためだったら、何だってします。どうしてそんな質問をなさるのですか。」

「あなたに知ってもらいたいからです。」指導者は言いました。「たとえて言えば、天の御父も洋服だんすの植えにあなたの写真を飾っておられるということです。天の御父はあなたを愛し助けてくださいます。主に寄り頼んでください。」

幸福を阻んでいた、隠れたくさびは取り除かれました。

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