この説教でモンソン長老は、人生の試練と困難を切り抜けるために、その助けとなる堅固な土台を築くことについて教えておられます。神はわたしたちがこの地上に住んでいる間、神に忠実であるかどうかを見る為に試しを与えられます。一方、サタンは神の道から私わたしたちが外れるように誘惑します。また他の人たちもわたしたちにとっては苦痛になるような選択をすることがあります。悪いことは善良な人にも起こります。困難に直面すると神に忠実でいることが難しくなることもあります。信仰が試され、従順であることは容易ではなくなることがありますが、もしわたしたちがモンソン長老の忠告を聞き入れるなら、人生の嵐を乗り越えることができます。

モンソン長老は、困難なときにわたしたち自身と家族を強めることができる3つの忠告を与えてくださいました。もし祈ること、聖文を読むこと、他の人々に奉仕することを忘れないならば、神への従順と救い主に対する信仰を持ち続けるに十分強い霊的な筋力を養うことができます。

わたしたちが祈るとき、愛する天のお父様との関係を築くことができます。祈りによって神とコミュニケーションする方法を学び、わたしたちの祈りに対する神の答えを知ることができます。またわたしたちの個人的な問題について神の忠告に従うようになることを学ぶのです。こうして一つ一つの学び取ったことを通して、わたしたちが困難に遭った時に神を信頼し、導きを受けられるようになります。主に心を向けることを習慣にすることで、平穏なときはもちろん、最も神の助けを必要としているときに祈りに対する自信と信頼を持てるようになります。

聖典には神に対する信仰と従順の驚くべき例を見出すことができます。聖典を読むことで、わたしたちの特定の疑問について神からの答えを受けられます。聖文に書かれている人々の忠実な行いを読んで、どのように生きていけばよいかの模範を知ることができます。聖書やモルモン書の人物の経験した困難に照らし合わせて、その人々がどのように忠実であったか、あるいはそうでなかったかを知ることができます。聖典の中の模範によって、わたしたちの試しをさらによく耐える方法を知ることができます。

どんなことでも無私の奉仕は神に仕えることです。他の人を助ける時、自分の持っている問題を忘れることができます。他の人に愛と慈悲を示す時、主のわたしたちに対する愛と慈悲をより深く理解することができます。神への奉仕に自分を忘れる時、より明確な人生の展望を得ることができます。

「堅固な土台」

この説教は、リアホナ大会報告2006年11月号、pp.62, 67-68に掲載されています。
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現世は試しの時期であり、天の御父のみもとに戻るためのふさわしさを証明する時期です。ですから試練や困難に遭うのは当然のことなのです。試しによってわたしたちの信仰が打ち砕かれ、魂にひびが入ってしまうかもしれません。それは、信仰の土台と真理に対する証がしっかりしていないからなのです。

一時的であれば、他人の信仰や証に頼ることもできるでしょう。しかし、最終的には自分自身のしっかりとした土台を築かなければなりません。そうしなければ、だれの人生にも必ず訪れる嵐に耐えられないのです。人生の嵐は様々な形でやって来ます。例えば、反抗的な子供が永遠の真理の道から離れ、過ちや失望の危険な道を選んだことによって、悲しみや心痛を経験することがあるかもしれません。自分や愛する人が、病気によって苦しみや死を経験するかもしれません。事故に遭い、つらい記憶が残ったり、命を落としたりするかもしれません。老いが進むと足元が危うくなり、死が忍び寄ります。死はしばしば、まだ人生の半ばの人にも訪れ、幼い子供の笑い声を奪っていくことさえあるのです。

トンネルの先に光が見えないときも、夜明けが来ないかのように思えるときもあります。わたしたちは、絶望している人の痛み、夢に敗れた人の失意、希望が打ち砕かれた人の落胆に取り囲まれています。わたしたちは声をそろえて「ギレアデに乳香はないのだろうか」(欽定訳エレミヤ8:22から和訳)という、聖文に記された嘆願を口にします。わたしたちは、自分の不幸を、悲観主義というゆがんだレンズを通して見る傾向があります。そして、見捨てられた、もう希望がない、孤独だと感じるのです。

こうした人生の浮き沈みに耐えられる堅固な土台を築くにはどうすればよいのでしょうか。忠実な人に約束された喜びを味わうために、その前提条件である信仰と証を維持するにはどうしたらよいのでしょうか。一歩ずつ地道に努力することが必要です。涙が出るほど御霊を強く感じ、これから先ずっと忠実であり続けようと決心したことのある人は多いと思います。このように言った人がいました。「このような気持ちを維持できさえすれば、義務を果たすことはとても簡単になるでしょうね。」しかし、そのような気持ちは移ろいやすいものです。このような大会で感じる御霊は、月曜日が来て、仕事や学校、家事や子育てなどの日常の雑務に追われるようになると、次第に薄れてしまうかもしれません。日々の雑務により、わたしたちの思いは、わたしたちが許してしまえば、神聖なものから世俗的なものへ、霊性を高めるものから、霊的な土台や証をむしばむものへと、流されていくのです。

確かに、この世界には霊的でないものがたくさんあります。それでも、わたしたちは信仰の土台を強め、強い証を築いて、ひるむことも、力を落とすこともなくいきることができるのです。この世で霊的に生き延びるために必要な土台をしっかり築き、維持するにはどうすればよいのでしょうか。

3つの役立つ指針を教えましょう。

1. 祈りを通して土台を固める。「祈りは魂の見えぬ望み 述べても述べずも、胸に燃ゆる」(「祈りは魂の」「賛美歌」83番)

祈るときには、天のお父様とほんとうに話しましょう。ほとんど何も考えずに、同じ言葉を繰り返すという習慣は簡単に身に付いてしまいます。皆、文字通り、神の霊の息子、娘であることを思い出せば、祈りを通して御父に近づくのは難しいことではないでしょう。神はわたしたちを知り、愛し、わたしたちの幸福を望んでおられます。心から、意味のある祈りをささげましょう。感謝をささげ、必要なものを求めてください。御父の答えを求めて耳を傾けましょう。そうすれば答えが与えられたときに気づくことができます。そうするうちに、わたしたちは、御父を知り、御父の御心を知るようになります。そして、御父を知るようになり、御父の御心を信頼するようになると、信仰の土台が強められるのです。もしもわたしたちの中に、常に祈りなさいという勧告に熱心に従ってこなかった人がいるならば、今こそ従うときです。ウィリアム・クーパーは言いました。「最も弱い聖徒がひざまずいて祈るとき、サタンは、ふるえおののく。」(ウィリアム・ニール編、Concise Dictionary of Religious Quotationsに収録「1947年」、144)

家族の祈りを怠らないようにしましょう。家族で祈ると、効果的に罪を予防できます。ですから、家族で祈ると喜びと幸福で満たされるのです。「ともに祈る家族は、ともにいる」という昔ながらのことわざは真実です。親であるわたしたちが祈りの模範を示すならば、子供にとって生涯必要な自分自身の信仰と証という堅固な土台を築くのを助けてあげることになるのです。

2.聖文を研究する。ヨシュア記の中で主が勧告しておられるように、「昼も夜もそれを思」うようにしてください。(ヨシュア1:8)

聖文の研究に日々時間を費やせば、間違いなく、信仰の土台が堅固になり、真理に対する証が強められます。

アルマは、ギデオンの地から南方のマンタイの地へ向かって旅をしていたときにモーサヤの息子たちと再会して、大いに喜びました。アルマは久しぶりに会った彼らが「なおも主にあって兄弟であったので、その喜びはいっそう深かった。さらに、彼らは正しい理解力を備えた人々であり、また神の言葉を知るために聖文を熱心に調べてきたので、すでに真理を深く知るようになっていた。」(アルマ17:1、2参照)

わたしたちが神の御言葉を知り、それに従って生活できますように。

3.信仰と証の堅固な土台を築くための3つ目の指針は、奉仕です。

ある朝、車で事務所に向かう途中、クリーニング屋の窓に次のような看板がかかっているのに気づきました。「価値ある奉仕をご提供します。」

実際のところ価値ある奉仕とは,まさに主の奉仕なのです。

「わたしは自分の生涯をあなたがたのための務めに費やしてきたと言ったが,それは自慢したくて言ったのではない。わたしは神のために務めてきたにすぎないからである。そして見よ,わたしがこれらのことを語るのは,あなたがたに知恵を得させるためである。すなわち,あなたがたが同胞
のために務めるのは,とりもなおさず,あなたがたの神のために務めるのであるということを悟らせるためである。」(モーサヤ2:16-17)

これが,価値ある奉仕です。わたしたち全員が召されている奉仕,すなわち,主イエス・キリストの奉仕です。

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