私はリストが好きです。スーパーの買い物リスト、荷造りリスト、することリスト。私は、物事がすっきり整然とされているのが好きで、終えたことにチェックをしながら、リストに沿ってやっていくことできます。何かをする必要があるときは、欲しい結果を手に入れるための順を追った間違えようのない方法(レシピのように)を知りたいです。多くの場合、私はまさにそれを手に入れます。芝刈り、スプレッドシートの作成、備品の組み立て方などの手順を追った説明書を。しかし宗教では、どんな事柄も順を追った説明書はめったにありません。

mormon-prayer6私はしばしば、祈りとその答えを得る方法(how to pray and get answers.)を教えてくれる順を追った説明書があったらと願ってきました。私は、することを教えてくれるリストが、それに沿って行い最後までやったら答えが得られるという約束付きで、欲しいと思っていました。しかしそんな幸運はありませんでした。

祈りはアスピリンとは違う

私は頭痛がすると、休憩をします。休んで、横になり、リラックスします。それでだめなら、暗い部屋か冷たいタオルを試すかもしれません。そしてそれでもだめなら、最後の手段として、薬を服用します。この信頼できる間違いのない頭痛解消法は、ほぼ誰にでも効きます。そうでなければ、彼らは違う方法を持っています。しかし、祈りはアスピリンとは違います。最後の手段ではありません。痛みがあるときだけにすることではありません。すぐにすべてを癒すものでもありません。

祈りは、アスピリンの正反対です。最後の手段ではなく、祈りは私たちが日々頼るべきものです。問題がコントロール不能になったり、重大なトラブルになるまで祈るのを待つのではなく、最高の気分の時でさえも、常に祈るべきです。問題に対する即席の解決ではなく、時には、答えや助けを得る前に、同じ事柄について長い間祈り続けなければなりません。

ガイドラインと助言

祈りについての順を追ったマニュアルは実際にありませんが、祈りに関するガイドラインと助言はあります。エレミヤ29章で、主は教えています。「その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈りを聞く。あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、」(エレミヤ29:12-13)実際どのように神に呼ばわり、求め、望む答えを得ることができるでしょうか。

心から誠実に。私たちの祈りは、真に主に心を注ぎだす時に、より力強いものとなります。祈りは、使い古した決まり文句を何度も淡々と繰り返す以上のものです。実にそれは、心の中にあるものです。実際に神に話しかけ、私たちの気持ちを話す時、祈りはもっとずっと力強いものとなります。

適切な言葉を使う。宇宙で最も力ある神に話しているということを忘れないことが、重要です。適切な、尊敬の念を持った言葉を使うことは、誰に話しかけているかを忘れなければ、より容易いです。

感謝の気持ちを持つ。私たちの天父である神は、すべてを与えてくださいました。何も無く取り残されているように感じることがあると知っていますが、ちょっと待ってください。私たちには体があります。地上での生活があります。救い主イエス・キリストによる希望があります。常に感謝できることがあります。

すべては神次第のように祈り、そしてすべては自分次第のように働く。熱烈に誠実に祈ることは素晴らしいことであり重要です。しかし、神にすべてをしてもらうことを要求できません。祈ったことが実現するよう自分自身で、できる限り一生懸命働かなければなりません。それにより、真剣さを天父に示すことができるからです。

他の人のために祈ることを忘れない。どんなに悪い状況になっても、私たちの祈りを必要としている人が、常にいます。家族、友人、隣人。多くの人が祈りを必要としています。加えて、他の人のために祈ることにより、彼らに対する愛が増します。ルームメートや友人とトラブルがありますか。その人のために心から祈って下さい。その人を愛することはもっと容易でしょう。

祈ってみましたか

末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長であり預言者、トーマス・S・モンソン大管長は、以下の逸話を分かち合っています。

取るに足りない苦情への対応を任されているある人事担当者が,とてつもなく忙しい一日を終えたある日のことです。未解決の問題を持つ人々に向けて,冗談のつもりで自分の机に小さな張り紙をしました。「お祈りはしましたか。」彼は気づいていなかったかもしれませんが,この簡単な助言がより多くの問題を解決し,より多くの苦しみを軽くし,より多くの罪を防ぐことでしょう。そしてほかの方法では得られない,より深い安らぎと満足感を人の心に与えるのです。(「祈りと信仰により主のもとに来る」、リアホナ2009年3月号)

祈りは、非常に単純な解決策に思え、多くの人には時間の無駄に思えます。結局のところ、私たちには神を見ることが出来ず、莫大な数の人々が毎日神に祈っています。しかし必要なのは少しの信仰です。天父が私たち一人一人を愛しておられるという信仰です。なぜなら神は愛しておられます。神が私たち一人一人の祈りを聞いておられるという信仰です。なぜなら神はできるからです。神が祈りに答えられるという信仰です。なぜなら、神はなさるからです。

祈りは時代遅れで、単純だった時代の習わしだという批評家へ、モンソン大管長はこう答えています。

わたしたちは今日も,子供を愛し,義にかなった生活を送ってほしいと望んでいるのではないでしょうか。また,神の神聖な守りの御手を必要とし,主の憐れみに包まれ,主が与えてくださったこの命に恩を受けているのではないでしょうか。時代はそれほど変わっていません。今日もなお,祈りは力,すなわち霊的な力を与えてくれます。今日もなお,祈りは安らぎ,すなわち霊的な安らぎをもたらしてくれます。(「祈りと信仰により主のもとに来る」、リアホナ2009年3月号)

私たちはいつでもどこでも常に、主に頼ることが出来ます。主は私たちを愛しておられます。私たちは、彼の子供です。彼は私たちに祈って欲しいと思っておられ、彼は答えてくださいます。祈りはアスピリンのようではありません。もっと良いものです。

これは、ミーガンにより書かれた。

私はユタ州で生まれ育ち、そのほとんどを小さなハリケーンの町で過ごしました。今、アイダホ州レクスバーグにあるBYUアイダホ校で英語の勉強をしていて、7月に学士号を取得して卒業する予定です。BYUアイダホ校で学んだことは素晴らしい経験で、偉大な文学を学ぶこと、自分の執筆能力を高めること、特に多くの新しい人々とで会うことが大好きでした。音楽、特に演奏が好きで、オルガンとピアノを弾きます。アメリカ手話とその関連文化にとても興味があります。わたしは、人生でずっと末日聖徒イエス・キリスト教会の会員であり、わたしの受け継ぎと私の成長と共にあった福音を愛しています。

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